あたりまえの未来は自分たちでつくる

「あたりまえの未来は自分たちでつくる」という小学校設立を目指しています。

なぜ教育なのか、なぜが学校なのか

そうだ!これを書いておかなければ、ということを思い出しました。

 

「なぜ教育なのか?」

「なぜ学校なのか?」

 

学校をつくる、という原点の想いを書かずしてどうするのだ!?

 

ということで、書いてみると、その理由は、

 

「ない」

 

です。

 

そう、理由は「ない」のです。

 

思い起こせば5年前、ふと「授業」とか「学校」というキーワードが、自分の頭に浮かんできた。

なぜ頭に浮かんできたのか?と、いくら考えても、その理由がない。

楽しい学校生活を送ってきた、とか、とても尊敬する教師に出会った、とかいうポジティブな理由もない。

いじめられた、とか、ダウンロード中心の授業で苦しかった、というネガティブな理由もない。

 

そもそも、自分が教師を選ぼうと思ったこともなかった。

大学を選ぶとき、教職課程(つまり教員資格を得る)をとるか、と考えると、「ない、ない。絶対に生徒を贔屓(ひいき)する自信あるし!(生徒を)平等になんか扱えるわけがない!」と確信をもっていたので、自分が授業をするとか、学校に携わろうと思ったことが欠片もないのだ。

(ある意味、こういうことを考えていた時点で、学校や教育というキーワードが、自分の頭の中に浮かんでいた、とも言えるのだけど。)

 

なので、5年前に「授業」「学校」というキーワードが頭に浮かび、そのキーワードに妙に心動かされている自分がいたのが、今思っても不思議で仕方がないのだ。

 

それからというものの、時折、「学校」とか「授業」に関わるものに、少しずつ携わることになる。

 

「聴きあう授業、をやりたい!」と言い出したり、千葉県の房総地区にある小学校の廃校イベントで、300人くらいの人たちと共に、校かを使ったミュージカル(創作ダンス)の企画運営に加わったりしていた。

 

徐々に、自分の内側にある「学校」や「教育」への”根拠なき”想い、声が大きくなってきたのだ。

そして、自分にも子どもができ、上野原市西原に移住し、そこで起きた小学校の統廃合問題。

そこで、ついに「火がついて」しまった。「学校をつくる」ことしか考えられなくなったのだ。

 

寝ても覚めても、どんな教育を提供できたらいいのだろう?どんな学校が運営されていたらいいのだろう?、と考えてばかりいる。

朝起きて、布団の中でぼんやりしているにも関わらず、ほとんどのとき、学校や教育のことを考えている。

そんな私が学校をつくろう、という。

もう非常識でしかないし、わけわかんない。それは、自分自身でもそう思う。

 

でも、つくらざるを得ないのだ、学校を。